臨済宗建長寺派 萬松山 崇禅寺
臨済宗建長寺派 萬松山 崇禅寺


     
 


  崇禅寺は元久2年(1205)開創以来約800年の
法灯をいまに伝えております。
しかしながら、
開創時の詳細な資料や文献は
現在には残されていない為、ここ桐生に伝わる
説話を二つご紹介します。

 
     

 

   帰郷後に草庵建てられ布教北条時頼さまにも慕われる

  六年もの間、法然上人のもとで厳しい修行を積まれた智明上人は、浄土宗の布教と庶民救済をはかるために、法然上人のもとを去って郷里の小倉の里へ帰ってきました。ときに元久二年(1205)のことでした。
  小倉の里にもどりますと智明上人は、小倉川のほとりの高台に草庵を建てて、さっそく布教と念仏三味の生活にはいられました。
「今日も朝早くから、お上人きまの読経の声が流れてきますな。」
「いいお声ですな。あの読経の声を聞いているだけで、ワシらの気持ちが清められますよ。」
「お上人さまが小倉の里に入られてから、毎日、あのお声が聞こえるようになったおかげで、里の中には、これまで以上のすがすがしい空気が、流れるようになりました。」
 草庵から流れてくる智明上人の読経の声に、耳を澄ませて聞き惚れるという、里人の清浄の日々が続きました。
 この智明上人の念仏三昧の ありがたさ、貴さを感じとっていたのは、小倉の里の人々 だけにとどまりませんでした。智明上人の徳を慕って、遠く鎌倉から、はるばると小倉の草庵を訪ねる若い武士がありました。後に鎌倉幕府の執権になられた、若いころの北条時頼さま(泰時さまの誤りか?)でしたから圧巻です。
  時頼さまは草庵を訪れますと、鎌倉から小倉の里への長旅の旅装を解くのももどかしそうに、庵の内に入り智明上人とともに、長い時間読経に没念しつづけました。
  この時頼さまの熱心な念仏勤行の姿には、
「あなたさまは、まさに念仏の行者」西方(極楽浄土のある方角)を願う心、懇ろなり。」
と智明上人も感じ入り、称賛されたほどでした。
  智明上人が、時頼さまへの説法と交流を重ねつつ、この草庵でつづけた念仏三味の暮らしも、いつの間にか四十余年という歳月が過ぎ去りました。
  時代も十九回の改元を経て、元号は宝治となっていました。少壮で溌刺としておられた智明上人も、すでに齢七十五歳のご高齢となっていました。その宝治二年(1248)の初頭。このころから智明上人は、健康状態があまりすぐれず、足もすっかり弱って歩行さえ困却な状態になっていました。日課とされていた「小倉の里を巡って、里人たちと語り合う楽しみ」さえも、ほとんどできなくなっていました。
  ご自身の命の終焉が近いことを悟られたのでしょうか。ある日のこと智明上人は、かつて「念仏の行者」と称賛した鎌倉の北条時頼さまに、書状を添えて一本の杖を贈りました。その杖は、これまで智明上人が我が分身のように大切にし、愛用しつづけてきた栗の杖でした。
 杖に添えられた書状には、
 栗は「西の木」と書きます。わたしは西方の行人として、「西の木」と書く栗に睦まじさを覚えて、多年にわたって栗の杖を所持し愛用してまいりました。 しかし、老体となった今は、歩くこと自体叶わなくなり、この栗の杖も用をなさなくなりました。
 そこで西土に心を運びおります時頼さまに、この栗の杖をお授けまいらせます。
ぜひ、この栗の杖をお使いになられて、時頼さまもいつの日にか、浄土にまいられますように。
 といった内容がしたためられてありました。この贈り物に、時頼さまはことのほかお喜びになられて、さっそく智明上人の元に返礼を届けられました。その中には、

      老いらくの 行く末かねて 思ふには つくづく嬉し 西の木の杖

という和歌も添えられてありました。
  智明上人から杖をいただいた時頼さまは、その後、つねに西土の託生を心にかけて、阿弥陀さまの引接を願われたといわれます。
  その年の九月十五日のことでした。早朝から智明上人は、いささか体調の異状を感じとられました。そこで使いを走らせて、舎弟の園田淡路守俊基さまを急ぎ草庵に呼び寄せました。
  急を聞いて駆けつけた俊基さまは、息をはずませながら草庵に入りますと、
「兄者、なにごとかのう。朝から急ぎの用とは?」
と、智明上人の前にドッカと座して尋ねられました。
「おお、俊基か。ワシはのう、すでに老病に犯されており、ワシのこの世での生命も、すでに終焉を迎えたようじゃ。今生のそちとの対面は、今日ばかりと思われる。」
「なんと!」
「そこでじゃ。ワシが冥土へ旅立つ前に、なんとしてもこれだけは、そちに申し渡しておきたいと思っての。朝早くから、そちには済まなんだったが、使いを走らせたのじゃ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「そちは、なにかと罪深き人間である。よって、これからは必ず念仏を唱え、安着の浄刹に参会するよう。たとえ鹿や鳥を食すとも、その食すときには念仏を噛み交ぜるようにの。また、万が一合戦となって争うことになり、敵に向かって弓を引くことになろうとも、決して念仏を捨ててはならぬ。これは、兄として、また念仏の行者としてのワシの遺言と承知されたい。よう心得てな。」と教訓しました。
  兄・上人の命の残り少ないことを知らされた俊基さまが、悄然として草庵を後にされますと、智明上人は弟子たちを招いて、別時の念仏を修しました。
  翌十六日の夜を迎えますと、智明上人は病床の床を出られ、端座合掌して高い声で念仏を唱え始めました。そして念仏唱名一時(二時間)ほどして、あたかも禅定に入るかのように、静かに息を引き取られたのです。なんとも見事な智明上人の大往生でした。このとき紫雲が草庵上になびき、荘厳な調べが外に流れ、庵室の間には光明が充満して、あたかも自然が、そして仏界が、智明上人の死を悼むかのような荘厳な光景となりました。
 小倉の上人とも呼ばれて、里人に慕われた智明上人。数々の業績を残して冥土へ旅立ったときの光景は、その貴い業績、上人の人柄にふさわしい、まことに得も言われぬ光景だったと伝えられます。

 智明上人(ちみょう・しょうにん)
智明上人が草庵を結ばれた鐘撞谷戸の所在地智明上人が仏門に入られる以前の俗名は、 園田太郎成家といい、園田御厨の荘司だった。俗世に在ったころの成家は大変な乱暴者で、鳥獣の殺傷を好んで行った。それが大番役として京(京都)へ上ったおりに法然上人と出会い、上人の徳に感化されて仏門に入った。そして「智明」の法名を戴くと、まるで別人のように人柄が変わったという。
  六年間という厳しい修行の末、元久二年(1205)に浄土宗布教のため帰郷し、 小倉の里(川内町一〜二丁目)へ戻られ、草庵を結ばれた。草庵を結ばれた場所は、小倉川右岸の高台だったといわれ、現在、地元では『鐘撞谷戸(かねつきがいど)』 と呼んでいる。この草庵が萬松山崇禅寺(臨済宗)の草創である。(別説もある)上人は、宝治二年(1248)、七十五歳で没し、川内町二丁目の園田家墓地で永眠されている。


                             ふるさと 桐生の民話 第9集 清水義男・編


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