臨済宗建長寺派 萬松山 崇禅寺
臨済宗建長寺派 萬松山 崇禅寺

  


   腎問子親子再会の記念に造像 世にも稀な親子共作の傑作像

  昔のこと、奈良の都に『希代の名人』と称えられた、賢問子という仏師がおりました。幼いころから優れた彫刻の才能があり、成人すると国内屈指の仏師として、その名を轟かせるほどになっていました。しかし賢問子は、その名声に決して満足はしていませんでした。
  あるときのこと、「仏師として世に出るためには、さらに技量を磨かねば・・・・・。」という大志を立てて、中国大陸へ渡っていきました。
  中国に渡った賢問子は、日夜、寸暇を惜しんで一心不乱に技を磨きました。もともと優れた才能があったうえに、人の何倍もの研鑽を重ねましたので、中国でも賢問子の名声は次第に高くなりました。
  その名声は、間もなく天子様のお耳にも達しました。「わが国内に、賢問子という名仏師がおるそうな。その仏師の作品をぜひこの目で見てみたいものじゃ。」
  天子様のこのお言葉に、従臣たちは直ちに城下に散りました。そして賢問子の作品を集め、早速、天子様にご覧にいれました。「おお、まこと評判以上のすばらしい作品じゃ。見事というほかに言葉がない。これほどの名仏師を野に置いておくのは、何とももったいない。わが宮廷に召し抱えて、さらに秀でた作品を生み出してもらおうぞ。」
 この天子様の思し召しによって、いくばくもなくして賢問子は、宮廷で天子様の御用を務めるようになりました。
 天子様のおそばでお使えするようになってから、ほどなくして賢問子は、妻を迎えました。立派な邸宅を建て子宝(男の子)にも恵まれました。そして、人もうらやむような裕福な生活を送るほどに出世しました。しかし、日ごとに名声が高まっても、恵まれた生活が送れるようになっても、賢問子の心の中には、充足感どころかどこか透き間風が吹いている・・・・そんな感じがしていました。賢問子には、日に日に望郷の念が強くなってきていたのです。賢問子は、心を決めて天子様にお暇を願い出ました。
  けれど、天子様は、「賢問子の技量は、今や我が国の宝じゃ。帰国を許して宝を手放すわけにはいかぬ。」と、賢問子の技を惜しまれて、帰国をお許しにはなりませんでした。そればかりではありません。「我が国の船の日本航行をいっさい差し止める詔」まで出されてしまったのです。
  これで賢問子の帰国への道は、完全に閉ざされてしまいました。しかし、賢問子は
まったく帰国をあきらめませんでした。かえって、その想いをますます募らせていったのです。
  長い間いろいろと思いを巡らせていた賢問子は、何を考えついたのでしょうか。ある日突然、周りを締め切って仕事場に籠もりますと家族の入室も拒み、寝食を忘れて彫り物に打ち込み始めました。「父上は何を彫られているのでしょうか? 母上!」
  何日も居間に顔を見せない賢問子を気づかって、伜が母の顔をのぞき込みますが、奥さんとて、中の様子が分かろうはずはありません。「母にも分かりません。何を彫られておりますのやら‥‥・」と、ただただ心配そうに眉間にシワを寄せるばかりでした。長い長い時間をかけて賢問子が彫り上げたのはとてつもなく大きな鳥の彫り物でした。不思議なことにその巨鳥は、あたかも生ける鳥のように「バサッ、バサッ」と、見事に羽ばたくのでした。
  この巨鳥の彫刻が完成しますと、数日後、賢問子は妻には書き置きを、伜には愛用の「のみ」一丁を形見に残して、彫り上げた巨鳥に跨って日本へ帰国してしまったのです。
 父・賢問子の去った後、伜も彫刻師の道をあゆみ、やがて賢問子同様に著名な仏師に成長しました。これまで伜は、父の残した「のみ」を常に仕事場に祀って仕事に励むとともに、自己の技量を高める目標にし頑張ってきました。また、フッと目の前から消えてしまった、父を偲ぶよすがにもしてきました。
「父上は、今、日本でどんな生活をなされておられるのだろうか。」
「帰国なされても、日本では、やはり仏像を彫られておられるのだろうか。」
「なんとしても、もう一度父上にお逢いして、今のわたしの技量を見てもらいたい。」
「別れてから後のことをじっくりと話し合ってみたい。」
  伜は、こう思いながら形見の「のみ」を常に手にし続けていました。この父への思いは日増しに募るばかり。「父上との遭遇・・‥・この夢は決して叶わない夢ではなかろう。」とうとう伜は、父恋しさから日本への渡航を決心しました。
 伜は長い船旅の末に、ようやく日本に着きました。そして、日本国内をくまなく歩き回りました。
しかし、父の行方はようとしてつかめませんでした。
  散々捜し求めたあげく伜は、「これだけ捜しても行方がわからないのでは、父上は日本にいないのでは?」「もしや父上は、もう、この世におられないのではないだろうか。」などと、不吉な思いをもつようになりました。「もう一度、奈良の都を訪れてみよう。これでお逢いできなかったら、あきらめて中国へもどろう。」
  なんとしてもあきらめきれない伜は、そう心にきめて、再度、奈良の都に足を入れました。
  奈良に入ったとたんでした。伜は我が目を疑いました。夢にまで見続け恋い焦がれながら、あれほど捜しあぐねていた父・賢問子の姿が、なんと目の前に在ったからです。それも、春日明神の社殿近くでバッタリと・・・・・。「父上! 父上ではありませぬか。」
  変わった姿を見た賢問子は驚嘆しました。中国大陸にいるとばかり思っていた伜が、突然、目の前に現れたのですから‥・・・。
「‥・・・‥・・・・・‥・・。」
  賢問子は絶句したまま、両手を大きく広げて走り寄る伜を抱え込みました。賢問子は帰国して、春日明神お抱えの彫物師となっていたのです。
あまりの奇遇に、「このように、奇跡的な親子の対面が叶えられたのは、もはや神仏の御加護以外には考えられない。」
  賢問子親子は、そう固く信じました。そして、その神仏への感謝の念から、二人で力を合わせて阿弥陀如来像を刻むことにしたのです。
  この阿弥陀如来像を刻むという仕事の最中にも、親子は奇跡とありがたい霊験をも戴けました。観世音菩薩様と勢至菩薩様が僧侶に姿を変えて現れ、二人の仕事中にあれやこれやとこまごました世話をし、協力をしてくれたのです。
  やがて、阿弥陀如来像が立派に仕上がりました。仕事場を清めて阿弥陀如来像のお姿を改めて見つめた賢問子親子は、「おお、この阿弥陀如来像は、われながら見事な出来映えだ。我ら親子の合作として、自信をもって世に出せる、一世一代の誇れる尊像に仕上がった。」と、手に手を取り合って深い喜びに浸りました。「賢問子様親子が、ありがたい阿弥陀様を完成されたそうな。」「稀にみるすばらしい尊像だそうな。」
  まもなく阿弥陀如来像完成の話を聞きつけた大勢の人々が、次々に賢問子のもとを訪れました。そして、あまりにもすばらしい尊像を拝観し、皆一様に驚きの声を上げました。
  そして、いつの間にか、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」と、両手を合わせ名号を唱え始めていました。「さすがは名仏師・賢問子様親子の作じゃ。」
「阿弥陀如来像は、まこと傑作じゃ。」「全国各地の著名像と比べても、この阿弥陀様は勝るとも劣らない名作じゃ。」「阿弥陀像の前に詣でると自然に両の手が合わさってしまう。ありがたいことじゃ。」
  こういった声が潮のように巻き起こり、大きなうねりとなって、全国津々浦々にまで伝わっていきました。
  賢問子親子が、奇跡の遭遇に感謝の心を込め、力を合わせて一心不乱になって彫り上げた傑作・阿弥陀如来像・・‥・その如来像が、今はありがたい仏縁によって萬松山崇禅寺のご本尊となって、わが川内町の山ふところに抱かれているのです。
  これまた奇跡的な仏縁といえましょう。

萬松山崇禅寺(ばんしょうざん・そうぜんじ)
崇禅寺は、法然上人の弟子・ 智明上人(ちみょうしょうにん。小倉上人とも称された)によって、元久二年(1205)に開創された山寺(当時は浄土宗だったと思われる。)である。
  後に南北朝時代中期に至って、建長寺第四十五世・東伝士啓禅師により、臨済宗 の寺として開山された。本尊は本文にある木彫阿弥陀如来立像(昭和三十三年(1958)八月一日、群馬県指定重要文化財)である。境内はおよそ一万坪(三万三千平方メートル)の広さがあり、県から「崇禅寺緑地環境保全地域」に指定されている。弥陀の小径(みだのこみち)、桐生市指定天然記念物・イトヒバ (樹齢六百 年超)、群馬の自然百選、七草粥、赤松老松群の寺などで、近隣に著名である。

ふるさと 桐生の民話 第10集 清水義男・編


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